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平成

いろいろ
36-01-27

SNSで政治豚が増えた理由

ウクライナ人がミス日本人に選ばれて議論を呼んでいるようです。

くっだらね~

しょうたは九州への愛郷心は玄界灘の北風よりも強いけど、自分が日本人なんて思うこともないので、ミス日本人が誰になろうと興味ないです。
しょうたのような愛国心の有無以前にそもそもの日本人としての意識さえ薄い人間からすると、愛国心は当たり前として、左翼的な日本下げに勤しむ人たちの心情も一切理解できません。左の人は「俺は人権派だ。ネトウヨとは違う!」と全力で否定するに違いないけど、誇りに思うか恥に思うかの違いだけで「日本」「日本人」という属性に固執している点で何ら変わりはありません。好きの反対は嫌いではなく無関心なのです。

母数が多いから受け入れられて権威や学問にさえなっているだけで、国家・国民なんていう政治の都合上生み出された実体のない概念を本気で考えている人々は、妄想上のストーカー集団ギフハブに怯えるASKAと変わらないと思うっちゃね。

ということで、今日はいつもよりちょっとまじめな、平成社会のお話をします。


では、本題に入りましょう。
今日は、ネットやSNSで目立つように00年代以降左右を問わず政治豚が増えてしまった理由に関して考えてみました。
巷ではネットが普及したせいとは言われているけれど、しょうたは、たまたまネットの普及と時期が被っただけで、エコーチェンバー効果などで傾向を加速させることはあったものの、

直接の原因はネットではなく、「日本人」「日本」を意識する人が増えてしまったせい

だと思うっちゃね。
では、なぜ「日本」「日本人」が00年代以降強く意識されるようになったのか?
しょうたは

都市部への人口集中、雇用の流動化、東日本大震災

のせいだと考えています。

まずは、都市部への人口集中から説明します。
しょうたが福岡人・九州人としての誇りを持っているように、普通の人は土地にアイデンティティを置くものだと思うっちゃけど、地元を捨てて都会に出た人はどこにアイデンティティを置くのでしょうか?
福岡、鹿児島、広島など、西日本に多い郷土愛がやたら強い地域の人達は、都会に出ても地元意識は強く残り、華丸大吉のように頼まれてもいないのにあちこちで福岡の広報活動をしたり、集団でカープの応援に行ったり、「県人会」なる秘密結社に集って夜な夜な焼酎のボトルを空けたりします。
大泉学園やときわ台などに成功して高級住宅地に居を構えられた人は、そこに住んでいることを誇りに思うでしょう。タワマン住みの証券マン (またの名を、庶民の資産を食い物にするゴミ) も、自慢は鼻につくけれどアイデンティティ形成に成功しているといえます。
ですが、郷土愛が特別に強い地域の出身でもなく、大泉学園やときわ台をあきらめて清瀬や成増に住むことになった人には自意識を置く土地がありません。可哀そうに!

でも大丈夫です。帰属意識を持つ先は土地とは限らないのだから!
人間、自分が所属する集団にだって帰属意識は持つでしょ?
学生ならサークルや部活や塾やバイト先だったり、大人なら勤務先の会社、もう少し広がると業界そのものだったり……。
三田会を名乗る、各方面に圧力をかけて仲間の性犯罪をもみ消すなど数多の横暴を行ってきた、もみ消しを図ろうも失敗して大炎上した飯塚爺とは格の違う悪行を重ねてきた上級国民倶楽部もありますが、あれも愛校心という一つのアイデンティティといえます。
アイデンティティには郷土愛以外にも愛社精神など様々な形がある。あったのです。

が!
竹中平蔵と日本語が不自由な大臣の親によって終身雇用制度が破壊されて雇用が流動化してかつてのような愛社精神も薄れ、職場もアイデンティティたり得なくなります。
こうして郷土愛も愛社精神も失われた人たちに残った最後の拠り所こそが「日本」「日本人」だったのです。
だから、00年代以降「日本」についてことさら意識する人たち、すなわり政治豚が増えてしまったんじゃないかな?

そして、平成23年に起きた東日本大震災でその傾向は一層加速させられてしまいます。
支援を求めるための方便として仕方なかったとはいえ、「頑張ろう日本」と「日本」を強調した復興のスローガンが使われてしまい、震災後の報道でも「日本人の助け合い精神」など「日本人」を強調した報道が相次いだため、日本人を意識する機会が否応なしに増えてしまいました。
さらに、震災で「絆」とか言われていた人とのつながりの大切さが再認識されて人々の帰属先を求める要求も強まってしまいました
「あまちゃん」「カープ女子」のように、都会人が喪失したアイデンティティを疑似的な故郷に見出す健全な社会現象もありましたが、当時馬鹿の一つ覚えみたいに強調された「日本」にしか行きつく先のなかった人も多かったことでしょう。

というわけで、

帰属先がなく肯定的か否定的かの違いこそあれど「日本」というデカすぎる虚構にしかすがれない人達が、政治豚の正体

だとしょうたは思うっちゃね。
ちなみに、その「日本」の中に居場所すらなく外人に希望を抱くしかない社会のつまみ者がコスモポタニスト。
日本すらアイデンティティ足りえず、性別に置くようになったのが弱者男性とツイフェミです。

これを読んで心が痛くなった人は、まともなアイデンティティを見つけられるように頑張ってください。
土地や集団に限らずとも、趣味や推しだってアイデンティティ足りえるとしょうたは思うので、もっと楽しいことを探せば「日本人」から足を洗えるんじゃないでしょうか?。
35-05-08

平成懐古正名運動―平成ノスタルジーと呼びなさ~い!

平成懐古系バーチャルネットアイドルのしょうたがデビューした1年半前は平成は振り返られる対象にならない一周回って新しくならない時代だったのに、その後1年ぐらいで時代が一周回って平成は振り返られる対象になってしまいました。
どや!流行を先取りしててすごかろ~?
……調子に乗ってごめんなさい
しょうたなんかよりも早くから平成懐古をしている人はいっぱいいます。
平成29年に「平成レトロ」なる概念を提唱して平成初期の文化保護活動をしているライターの山下メロさんはその代表でしょう。

しょうたも山下さんの平成文化研究者としての活動を楽しみにしているし、参考にもしているし、なんならPC版しょうたのサイドメニューのリンクにも入れているぐらいです。みんなクリックして読みなさい。
でも、彼には一個だけ不満があります。
平成レトロってなんだよ!?
山下さんは「文化を残していくために『平成をレトロとして捉える』という視点を提唱したに過ぎない。ネーミングは手段で (中略) やるべきことは研究と保護」と述べていて、理念としては素晴らしくてしょうたも大いに共感するけど、ネーミングとしては問題ありすぎだと思うっちゃね。
まずは検索的な問題。昭和レトロと「レトロ」が被ってしまうせいで、平成の素晴らしい文化を検索するために「平成レトロ」と検索すると「平成と違って昭和レトロな……。」といった内容のものまで出てきて、昭和レトロに検索汚染されてしまいます。しょうたは平成を振り返りたいのに、なしてこげなもん見せられんといけないんだ!!
また、言葉的な意味もおかしいです。
Wikipediaでレトロと検索すると
古き良きものを懐かしみ愛好する」趣味
と出てくるけど、平成って古くはないでしょ……。
バブル以前の平成最初期についてはたしかに時代感じるけど、2000年代なんてしょうたたちゆとりキッズでも記憶あるよ!

じゃあ、平成懐古をなんとあらわすべきなのか?
巷では平成ポップ、平成サイバーなどが推されていますが、これも概念としておかしい気がします。
賛同している人は、前者については渋谷のギャル・後者については電車男的なものを想像してるんだと思うっちゃけど、それぞれギャル的なもの、あるいはオタク的なものしか包含されていなくて、平成文化全体を表す言葉としては不適格だからです。

それもダメなら、平成懐古を何と呼ぶとよいのか。
しょうたは「平成ノスタルジー」がいいと思うっちゃね。
これなら昭和とも被らないし、ノスタルジーも過ぎ去った時間や時代を懐かしむ気持ちという意味なので、別に古くもない平成を古いものと呼ぶ矛盾も発生しなくていいと思うっちゃね。

みんなも使おう「平成ノスタルジー」。