街並み
37-12-17
2000年前後の西日本で流行った?ベージュストライプの建物の起源を探る
木のぬくもりが流こした平成末期の建物や、とにかく豪華なバブル建築など、時代によって建物にも流行がありますが、2000年前後の西日本ではとある特徴を持った建物が多く建てられていました。
以下の写真をご覧ください。
博多リバレインモール (1999年開業)
(中野陽人撮影)
ナフコ福岡空港店 (2001年エレデ博多寿屋として開業)
(画像引用元:Wikipedia)
長崎駅 (2000年建て替え)
(画像引用元:Wikipedia)
フジグラン緑井 (2004年開業)
(画像引用元:Wikipedia)
とある共通点に気づかれましたか?
これらの建物は、すべて外壁がベージュ系のストライプ柄なのです。
他にも、2000年開業の夢彩都 (現・ゆめタウン夢彩都) や寿屋時津店 (現・イオン時津ショッピングセンター) 。2001年開業のコムシティ、長崎ペンギン水族館など、2000年前後の西日本の商業・娯楽施設建築では、なぜかこのような建物が流行していました。
関東では見かけないのに……。不思議ですね。
時代性に加え、地域性も兼ね備えた建物群。
「西日本新世紀様式」とでも呼びましょうか。
今回はその起源について考察してみました。話半分に聞いてください。
①九州の有名建築家
最初期のベージュ系のストライプ柄の建造物として知られるのは、1980年に建てられた「NEG大津工場厚生施設」という施設です。
それまでの建物の外壁用のガラスセラミックパネルは白のみの販売でしたが、この建物がきっかけで暖色系のパネルも製品に追加されるなど、建築業界にも大きな影響を与えたそうです。
その設計者の磯崎新さんという建築家は大分県の出身。
北九州市立美術館や、旧西日本シティ銀行本店など、九州内に多くの建築物を遺したり、福岡地所が手がけたネクサスワールドなどの都市計画に参画するなど、地域のデベロッパーにも大きな影響を与えました。
ネクサスワールド (1991年) ベージュストライプの建物群に雰囲気近いですね
(画像引用元:GoogleEarth)
彼の影響で西日本にはベージュストライプの建物を受け入れる素地ができていたのかもしれません。
②キャナルシティの影響
キャナルシティ博多 (1996年開業)
(画像引用元:Wikipedia)
さて、平成の西日本のベージュストライプ建築の流行の始まりとなった建物が、1996年オープンのキャナルシティ博多。
ジョン・ジャーディという、後に六本木ヒルズやリバーウォーク北九州、電通本社ビル、ラ・チッタデッラなど、平成日本に数多くの建築を遺した米国の建築家ですが、彼が最初に日本国内で手がけた建物であります。
彼は人が温かみを感じられることを目指して建物を作っており、色彩的には暖色調で模様が入ることが特徴で、それが前面に出たのがこのキャナルでした。
ここで前の話と繋がりますが、そのキャナルシティの設計者にジョン・ジャーディを起用したのが、磯村氏とともにネクサスワールドを作った福岡地所の藤賢一。
ジョン・ジャーディは福岡の建築文化をバックに日本に入ってきたのです。
ジャーディ氏設計ではなかったものの、福岡地所はキャナルシティに続いてリバレインでも外壁はベージュストライプにしたため、デザイン性の高いこの辺りの建物に触発されて西日本全域でちょっとした流行が起きたのではないでしょうか?
大分出身の磯崎新から (※) 福岡地所を経てジョン・ジャーディが設計したキャナルシティの流れで広がったベージュストライプの建物は、平成の西日本という時代と地域が生んだ建築様式だったと言えるでしょう。
※磯崎氏は、ポストモダニズムの皮を被った資本主義として、ジョン・ジャーディとその後の福岡地所には批判的なようだ。 (→参考)
参考文献
■BUNGANET「倉方俊輔連載『ポストモダニズムの歴史』11:黒川紀章の利休ねずみと磯崎新のモンローカーブに見る『表層』」
■産経新聞「平成の商業施設はこうして生まれた キャナルシティ博多」
■TECTURE MAG「 【JOB 特別インタビュー】福岡地所が求める人材とは!?」
34-04-08
00年代の公共施設によくあった壁埋めコンピュータのこと
今から15年ぐらい前の市民センターや道の駅といった公共施設の壁にはよく来館者が自由に触ることのできるコンピュータが埋めこまれていました。
とある個人サイトの道の駅紹介のページにある「観光案内の映像も流されている観光情報コーナー」という写真の映像が流れているモニターの下にコンピュータの画面らしきものを確認できますがこんな感じのやつです……。
こういった公共施設のコンピュータは
- マウスの反応が異常に悪い。
- なぜかブラウザがネットスケープ。
- ブラウン管に画面が焼け付いている。
- 二~三基中一基は常に調整中になっている驚異の故障率。
- マウスだけ出ていてキーボードはついていない。
- なので自治体や観光情報のページしか見れない。
……と、とんでもなく使いづらいく、子供の暇つぶし以外で使えるものではありませんでした。
一体あれは何の目的で設置されたものだったのでしょうか?
なぜネスケなどよくわからない仕様だったのでしょうか?
そしてなぜキーボードがなかったのでしょうか?
設置理由に関する仮説
2001年に「すべての国民がITのメリットを享受できる社会」などを目標とした「e-Japan戦略」が発表されましたがその一つに「行政のデジタル化」がありました。
それを見たお役人たちが「パソコンを置けばIT化できる。」と勘違いしてパソコンを色々な場所に設置してみたのかもしれません。
低スペックさに関する仮説
公共施設のネット接続できるコンピュータは、ブラウザがネスケ、画面がブラウン管など00年代にしてもやや時代遅れ感のある仕様でした。
時期的にXPを入れて不要になったWindows95あたりを捨てるにはMOTTAINAIと設置したのかもしれません。
同じように多くの人が触る図書館の蔵書検索用などのパソコンと比べても異様に高い故障率もボロさゆえのことだったのかもしれません。
壁に埋まっていた理由
昔のデスクトップPCはディスプレイがブラウン管だったのでかなりの重量・大きさがありました。
これを普通に机に置くためにはそれなりに頑丈な机や広い設置スペースが必要だったから、これらの面倒を避けるために壁に埋め込んだのかもしれません。
キーボードがなかった理由に関する仮説
ディレクトリ検索 (死語) でキーボードが必要なかったからでしょう。
しかしここで新たな疑問が出てきます。
なぜブロードバンド時代になってもそんな古代技術を使い続けていたのでしょうか?
それは当時のフィルタリング技術がまだ未熟で変なサイトを防ぎきれなかったことや、そもそも公務員たちがフィルタリングソフトの存在すら認知していなかったせいなのかもしれません。
ディレクトリ型サーチエンジンや自治体のポータルサイト起点なら変なサイトに飛ぶ可能性はほとんどないので……。
あれから十数年、いつの間にか公共施設で利用者に開放されているコンピュータは通常のデスクトップタイプのものに置き換えられ、壁に空いた設置用の穴もパネルなどで埋められて変なコンピュータが存在した痕跡すら消えかかっています。
00年代のわずかな時期に人知れず普及し、人知れず消えていった公共施設の壁埋めコンピューター。
本当にあれはなんだったんだろう……?