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平成アニメ感想

ホビアニ好きとしての「犬とハサミは使いよう」の感想

前期のアニメで「犬になったら好きな人に拾われた。」というのがありました。
しょうたは見てないので、Wikiで読んだ情報からあらすじ要約すると、犬になった主人公の男子高校生が普段はクールだけど主人公 (犬) 相手にはデれる美少女に拾われるという物語だそうです。

犬ハサか!

ということで、「犬とハサミは使いよう」のことを思い出してしまったので、レンタルビデオ屋でDVD借りて (平成少年なので。) 見ました。
~あらすじ~
本好きの高校生・春海和人は女性を強盗犯から庇って死んでしまうが、大好きな小説家秋山忍の新作を読みたいという執念でダックスフントになって蘇る。
一応生き返ったとはいえ、言葉も通じず犬としてペットショップに押し込まれて文句たらたらの和人。そんな彼の前にハサミを持った女性・夏野霧姫が現れる。彼女は和人が犬になって以来頭の中で和人の声が響くようになってうるさいので処分しに来たのだ。
縄で吊るしたりハサミを振り回してうるさい犬を拷問する夏野だが、拷問を続けるうちに目の前のダックスフントが自分を強盗から庇って死んだ恩人だと気づき、惚れる。また、秋山忍の正体は自分だと明かす。
こうして、本が繋ぐ一癖も二癖もある人たちも交えつつ、一人と一匹の共同生活が始まった。
死の間際に思い浮かべるのが本で、その後も残された家族よりも本のことばかり考えている主人公が異常すぎて感情移入なんかできないと放送当時はストーリーの評価は低かったけど、異世界転生全盛の今見直すと何かに執着があるだけでもかなり人間くさく感じるぞ! (犬だけど。)
こうやって視点を変えてみると感想も変わるもので、本バカの異常者だった和人も、自分のために和人を死なせてしまった罪悪感から自殺を試みた夏野や和人の死を受け入れられずに精神的におかしくなってしまった妹を目の当たりにしたことで、周りの人のことを考えていなかった過去の自分に反省し、その後も少しづつ周りの人に興味を持ったりするようになり、以前と比べれば周りの人間のことにも目を向けるようになったので、一応和人の犬としての生活を通じた精神的成長を描いているように感じます。OPの歌詞にある「君の人生変えるものは はからずも言葉の力」ってフレーズもそういう意味だったのかな~。
もし「犬ハサ」が令和の世に放送されていたら、現世のおもひでは綺麗さっぱり忘れて転生人生を満喫する現代の転生モノへのアンチテーゼとしてストーリーも高評価を受けていたかもね。
と、ここまでストーリーの感想を書いたけど、基本的にはギャグアニメなので別に大事なことではないです。忘れてください。

そのギャグですが、制作sideがギャグとして作っているであろう部分は同じようなことばかりてすぐに飽きます。和人が夏野に貧乳貧乳と言ってハサミで切られるか、秋山忍をライバル視する作家が「シャイニ~ング!」と現れて皆に無視を決め込まれるか、秋山忍の担当編集 (ドM) がいぢめられて気持ち良くなるか。この3パターンだけです。「脚本家は若年性アルツハイマーに冒されているのではないか?」と要らぬ心配をしてしまうレベルで同じようなことを繰り返しています。
逆に、シリアスでやってる部分は、本に感動した読者が作中に出てきた架空の催眠術を習得するとか、小説家がアイドル扱いされ大量のファンを引きつれてるとか、ホビアニの玩具を本に変えたようなノリなので、「ベイブレードGレボリューション」の後半や「焼きたて!!ジャぱん」みたいなオーバーすぎる描写を笑うのが好きな人にはどストライクだと思います。
後半になって来ると、どちらが先に原稿用紙100枚を埋めることができるかで作家間の揉め事を解決する「執筆戦」なる謎のバトルが展開されたり、本で読者を洗脳する執筆術が登場したり、もはや「玩具で世界征服」ならぬ「本で世界征服」です。

ホビアニ的な楽しみ方をするアニメ

だと思うっちゃね。
ただ、3話と4話が、超次元小説バトルもなく、ひたすら寒いギャグを繰り返すだけでかなりキツイです。放送当時に評価を地に落としたのも、ここで視聴者の多くが「つまらない。」と離れてしまったからじゃないかな~……。
中盤以降は再び面白くなるから、3話と4話にはなんとか耐えて、飛ばしてもいいから最後まで見てみてほしい

平成少年的な「オトナ帝国」の感想

~あらすじ~
野原家の住む春日部では20世紀を再現したテーマパーク「20世紀博」が大人気。大人達は子供もほったらかして20世紀博で遊んでばっかり!
そんなある日、20世紀博が散布した「懐かしい臭い」によって大人達は幼児退行して20世紀博に行き、町に残された子供は「子供狩り」の対象として20世紀博に追われてしまう。
他の春日部防衛隊メンバーが捕まる中、なんとか逃げ切ったしんのすけはひろしとみさえと再会。ひろしの靴の匂いで二人を正気に戻し20世紀博からの脱出を試みるが、その前に20世紀博リーダーのケンとチャコが現れ、東京タワーからさらに強力な懐かしい匂いを散布して時代を完全に20世紀に戻すと語る。
二人の計画を阻止するために東京タワーを駆け上る野原家。はたして21世紀を取り戻すことはできるのか!?
普通に見たらいい映画です。
20世紀で再現された昭和の風景の描写も緻密で、その時代を生きていないのに映像から懐かしい匂いが微かに漂ってくるぐらいです。
しょうた11歳も20世紀博の平成版のバーチャル会場を目指すつもりでやってるってこのサイトの管理人の中野さんも言ってたよ。
……なんだけど。
何周かじっくり味わうと、

矛盾と老害的価値観賛美に満ちた雰囲気だけの最低最悪映画

であるとさえ思うようになりました。点数をつけるなら0点です。
みんなの好きな映画をこきおろすと炎上しそうなので先に理由を言うね。
野原家によってケンとチャコの計画が阻止され、20世紀博の世界も自壊するラストのせいでわかりづらくなっていますが、20世紀的価値観の中でも最悪の部分を賛美と21世紀的な生き方を否定という平成少年には断じて受け入れがたいものがテーマだからです。

ケンとチャコは時代を20世紀に戻そうとし、野原家は未来を取り戻そうとしているので、当然対立軸はオトナ帝国―20世紀VSしんちゃん―21世紀であるように思えますが、実は野原家こそ昭和的価値観に沿って動いていて、逆にケンとチャコの方が21世紀的な生き方をしているのです
たとえば、名シーン扱いされてるひろしが正気を取り戻した場面……。
大人になって以降のひろしが思い出したのは、妻子のために身を粉にして働き、妻子と共に過ごす自分の姿でした。そこに、趣味やプライベートはありません。
そして、もう自分は父であり子供ではないと悟り、20世紀博の楽しい世界からの決別を決意します。憧れのヒーローや大阪万博も諦めて……。
それだけではありません。彼の精神世界内ではしんのすけの登場と同時に両親がひろしのもとを去っており、両親との決別すら暗に示されています
回想直後に号泣し、その後も「なんでこんなに懐かしいんだ。」と20世紀博への未練を涙ながらに口にしているので、子供時代との決別はひろしにとっても葛藤の末の決断だったのでしょう。
う~ん……。そんなに無理して悲痛な決心をしなくても、しんのすけと一緒に自身が子供だった頃の世界を楽しめばいいんじゃないかな……としょうたは思うっちゃけど、それは平成少年だから言えること。
いにしへのオタク差別の話でも出てくるけど、好景気に乗って生まれたディスコだとかスキーだとか各種娯楽を社会人として満喫できたバブル世代より上の世代では、趣味は子供のするもので、立派な大人は滅私奉公で家族のために働くべきという考えが支配的だったのです。
「オトナ帝国」時のひろしは一応バブル世代ではあるものの、作り手の原恵一監督は1959年生まれで昭和の価値観に染まりきっている年頃なので、過去への憧憬を完全に捨て去り父親に専念する道を選んでしまったのでしょう。
そして、ひろしたち野原家は、このような老害……じゃなかった……昭和的価値観に沿って、家族にはならず恋人という微妙な関係を続け子供もいないケンとチャコに対し見下したような態度を取っています。
みさえはケンとチャコのことを呆れたように「同棲時代ね~。」と評し、ひろしは「家族がいる幸せを分けてやりたい。」と家族を持ち出して煽っています。
家族の在り方や生き方も多様化した平成の今からすると二人の生活を見ても「仲睦まじいカップルだな~。リア充爆発(ry」としか思わないけど、家族をもって一人前の大人という昭和的価値観のフィルターを通せば、 (家族に滅私奉公する昭和的) 大人になることを拒否した無責任で自分勝手な社会不適合者なのです。

一方のケンとチャコは結婚はせず恋人としての関係を保ち、大量の旧車を保持して趣味を楽しみ (20世紀博も趣味のようなものだし) 、野原家とは対照的に自由な生き方―21世紀的な生き方をしています。昭和を再現した街まで作ってそこで暮らしているというのに、家族家族の5歳児のしんのすけよりも21世紀的生き方をしているというのはなんという皮肉でしょう!
でも、二人にとってそのことは大した問題ではないです。
彼らが20世紀を懐古しているのは昭和レトロにハマる連中のような単純な昔は良かった論に基づいたものではなく、「人々は夢や希望に溢れていた。」「未来が信じられた。」と語っているように、希望も楽しみもなく家族のために滅私奉公を続ける大人にならなけらばならない社会、あるいは人生に絶望して希望のあった過去に戻りたいと思ったためなのだから……。

今まで見てきたように、ケンチャコ―野原家の対立軸は「過去にとどまろうとする―未来を取り戻そうとする」ではなく、本当は「非・昭和的大人―昭和的大人」。作品のテーマも「未来を掴もう。」ではなく「昭和的大人になれ。」なのです。
ケンチャコは逆襲は仕掛けていないし、オトナ帝国とは名乗っていないのに、なぜかタイトルが「オトナ帝国の逆襲」になっているけど、その真の意味は20世紀的大人にならずに20世紀ごっこという趣味の世界に興じているケンチャコが、本物の20世紀的大人 (=オトナ帝国) に打ちのめされる (=逆襲される) ってことなのかもね。

このように、懐古はやめて未来への一歩を踏み出そうという作品と捉えられがちだし、そうにしか見えない「オトナ帝国」だけど、実は「結婚して子供を作って一人前!家族のために滅私奉公するのが素晴らしい!」という昭和的大人を賛美し、なおかつそこから漏れた人を半人前としてよしとしない、20世紀の悪い部分を凝縮したような絶望的な作品なのです。
多様な家族の在り方やライフスタイルを認めず昭和的価値観を素晴らしいものとして賞賛し、そこから外れた者に批判的な野原家と制作陣にはもはや怒りを通り越して恐怖すら感じます
こういう人達が「女は家を守るのだから社会進出するな。」とか「男は男らしくあれ。」と言って、社会を誰も幸せにならない不寛容で窮屈なものにしているんだろうね。

この映画で唯一希望が持てるのは、20世紀的大人になれというメッセージに反し、現実の21世紀が多様な家族の形や生き方に寛容になって、ケンとチャコのようなカップルも生きやすい世界になったことですね。
計画は失敗したものの、現実の21世紀の自由な空気の中で二人は旧車や昔の曲が好きなカップルとして立派な社会の一員と認められ、ささやかながらも希望を取り戻して楽しい日々を送っている……そんな気がします。

TV版を見たうえでの「たまこラブストーリー」の感想

もう2月ですね。
みんな鏡餅の中身はだいぶ減ってきましたか?
しょうたはもう食べつくしました。
お雑煮にして出汁とのコントラストを楽しむもよし。きな粉をまぶしてむせるもよし、お醤油をつけてカリカリに焼くもよし。
鏡餅が割れたこの時期だけの楽しみだよね。

こうやってお餅のことばかり考えていたら、10年ほど前のお餅のアニメを思い出したのでレンタルしてきました。

タイトルは「たまこまーけっと」。商店街の餅屋を舞台にした京アニの日常系アニメです。
当時は普通の萌え萌えアニメだと思って見ていたけど、この歳 (11歳) になって見直してみると出てくる人みんな優しくて暖かくて不覚にも泣いてしまいました。
うさぎ山に行ったら、誰にも顧みられることのないしょうたにも居場所ができそうだな……。
あ~なんでもない!しょっぱい話はやめっ!
せっかくなのでその勢いで末視聴だった劇場版の「たまこラブストーリー」も借りてみたんだけど、ナニコレ!?
精神的ブラクラと悪名高い「秒速5センチメートル」を越える鬱アニメやん……。
ということで、今日は「たまこラブストーリー」の感想ですよ。
~あらすじ~
うさぎ山商店街にある餅屋の娘・北白川たまこはお餅が大好きで、いつもお餅のことばかり考えながら友達や商店街の人たちと楽しく毎日を過ごしていました。
そんなたまこは高校3年生のある日、向かいの家に住む幼馴染のもち蔵に東京の大学への進学を考えていることと愛の告白をされてしまいます。
動揺してお餅のことさえ考えられなくなってしまったたまこ。もち蔵との関係も不自然なものになってしまいます。
そんなある日、進まない二人の関係に痺れを切らしたたまこの友達のみどりちゃんは、たまこに「もち蔵は今日で東京に引っ越す」と嘘を吹き込みます。みどりちゃんの言葉で自分の本当の気持ちに気づいたたまこはもち蔵を追いかけて走り出しました。
言いたいことはたくさんあるんだけど……、
まずは、

もち蔵が気持ち悪すぎる。

こいつがもち蔵です。
見た目だけならイケメンだけど、人を見た目で判断してはいけません。たまこのストーカーです。
家でも学校でも通学路でも部活中でも常にたまこのことを考えてるし、たまこのことを盗撮してPCにフォルダまで作ってます。
エンディングのアニメーションも、もち蔵がたまこを盗撮した映像という考察もあるようで、もはや性獣としか言えないバケモノです。
TV版のもち蔵も気持ち悪い部分が見え隠れしていたけど、行動に移す前にデラちゃん (たまこの家に居候していた喋る鳥。劇場版本編には未登場) がブロックしてくれていたのでたまこの日々は守られていました。
デラちゃんはTV版放送中は

いらない
うざい
ガチクズ
トリッピ―
ガンモ


など、散々な言われようでとても嫌われていたけど、たまこまーけっとを日常系たらしめていた重要な存在だったんだなーと再認識。超マジ感謝マジリスペクト。
そんなストーカー男によって、TV版全12話を通じてうさぎ山の人々が思うのと同じように見守りたい・応援したい愛らしい存在になったたまこが思い悩むのを見ていると、こっちまで心が痛くなります
しょうたは90分間ずっときりきりと胸を痛めながら画面と向き合っていました。

これだけでも十分嫌~な作品と呼べるけど、それ以上に受け入れがたいのが

TV版のテーマを全否定したこと

「たまこまーけっと」はゆるい日常系アニメと見せかけて、重い部分はデラちゃんで中和しつつもたまこが母を亡くしたときのトラウマを絡めながら変わらない日常の尊さやそれを維持するために頑張っている人がいることを描いた、浅そうで深い作品でした。
最終回も変わらないのが一番と締めています。
しかし「ラブストーリー」はそれとは真逆で、日常を壊すこと、変わっていくことを肯定的に描いています

原作レイプにもほどがある!

全ての元凶のもち蔵と主人公のたまこはもちろん、たまこの友達のみどりやかんなも少しづつTV版とは違う方向に進んで行ったり、違う方向に向かうことが示唆されて、「たまこまーけっと」で描かれた楽園のような時間と空間が消えていく様を見せつけられるのです。
しょうたは今までアイドルや声優の結婚報道で絶望したり怒ったり廃人になるオタクを見てなんでそこまで……と思っていたけど、やっと彼らの気持ちがやっと理解できました。応援していたアイドルの内面が変わって行くこと、そしていつまでも続くと思えた幸せな日常がなくなることにショックを受けるからなんですね。
うさぎ山商店街のみんなの娘だったたまこもストーカーに奪われたのに、これ以上何を失えば心は許されるの……?

「前に進むことも大事」というメッセージも理解できるけど、真逆のメッセージを持つ既存の作品を下敷きにせずオリジナルの新作でやればよかったのでは?
こんな原作レイプを受けたら監督もさぞお怒りだろうと思ったけど、調べてみたらTV版と同じ山田尚子監督!?自分で自分の作品を原作レイプしたってコト!?
「たまこまーけっと」は京アニ作品としては売れなかったにもかかわらず、京アニ10周年記念作ということで映画化してしまったので「失敗作」を映画化する自己嫌悪から全てをぶっ壊してしまったのかな……?
好意的に解釈すれば、TV版で丹念に描いてきた尊い日常と対比することで前に進むことの意味を際立たせようとした、逆に日常が壊されること様子を描くことでTV版のテーマである日常の重要性を際立たせようとした……といったところ?
捻くれ者のしょうたは、ストーカーのもち蔵を沼津の街中で抱き枕と一緒に自撮りしちゃうタイプの迷惑オタクに重ねて「たまこに対するもち蔵のように、アニメに過度にのめり込んで執着されると作り手の心も揺らぎ、やがて今までのようなアニメも作れなくなってしまう」というオタクへの警告と解釈したんだけどどう?なんか岡田斗司夫入ってますか?

あと、うさぎ山商店街の人たちの扱いも酷かったです。
TV版ではたまこに協力したり、寄り添ったり、見守ったりしていた彼らは、ストーカー (もち蔵) に付きまとわれて様子がおかしくなったたまこを見ればすぐに心配しそうなのに、映画ではたまこが普段とは違うことに気づきながらも見てるだけで何もしません。
本編では友達、家族と並ぶ重要な存在だったのに、映画ではストーリーにはほぼ絡まないただのモブ・背景扱いです
エンディングのクレジットも、TV版では店の名前で表記されていたのに、映画ではなぜか本名になっていて少し寂しかったです。もち蔵というパートナーを得たことで商店街はたまこにとって自分と不可分の存在でなくなったことを示唆しているのかもしれませんが、あまりのよそよそしさに商店街の人たちへの悪意すら感じます。
てかタイトルからして、順当に「劇場版たまこまーけっと~たまこラブストーリー~」にすればいいのに、わざわざ「まーけっと」を外してるから、「うさぎ山商店街なんて知るか」ってことだよね……。

こんなの「たまこまーけっと」じゃない!

……と、散々酷評したけど、「たまこまーけっと」のキャラや世界観やメッセージを壊したのと、もち蔵がキモかっただけで、オリジナルでやったなら普通にいい青春映画だったと思うよ。

主題歌を踏まえたうえでの「秒速5センチメートル」の感想

そろそろ卒業式の時期。
みんなはお気に入りの卒業ソングはある?
しょうたはちょっと世代からはずれるけど松浦亜弥の笑顔に涙が好きだよ。
学生時代、世界の終わりっていうアマチュアバンド (改名前) のMDを誰かが聞かせたら、クラスで流行って、ほどなく国民的バンドになったことがあって、

名も知れないアマチュアバンドのMDを誰かがみんなに聞かせたらすごく流行った

って歌詞にすごい共感を覚えてしまうから。MDなんてロストテクノロジーも懐かしいし……。

キミが好きなのは……?ユーミンの「卒業写真」か~。ちょっと渋いチョイスだね。
「切ない片思いを思い出して、告白すべきだったとか、今何してるんだろうとか色々思いが浮かぶから好き」ねえ……。
しょうたもあの曲は好きだけど、キミは一つ重大な間違いを犯しているよ!
よく勘違いされてるけど、あの曲で

卒業写真のあの人は

と歌われているのは、実はユーミンがお世話になった美術の女性教師だから、恋人や想い人じゃないんだ……。知ってた?

歌詞についてよく勘違いされている曲といえば、山崎まさよしの「One more time one more chance」もだよね。

いつでも探しているよ どっかに君の姿を

なんて人探しをしているかのような歌詞や、鬱映画でお馴染みの秒速5センチメートルの主題歌になったせいで別れた恋人への感傷に浸っている曲だと思われているけど、

実はデビュー当初の頃の音楽への熱い思いを失ったことを嘆く曲

なんだ!
君の姿というのも、若き日の歌への想いを擬人化しているだけで、人間ですらありません。
ということで、この前情報を頭に入れてから、も1回秒速5センチメートルを見てみました!
~あらすじ~
遠野貴樹は初恋の相手の明里を忘れられないストーカー気質の取り扱い注意なメンヘラ男。
寂しさを埋めるように色々な女と付き合うも、明里のことを思い出しては気持ちがすれ違って別れる。女には困らないメンヘラ男という一番最悪なパターンじゃないか!あとリア充爆発しろ。

社会人になった貴樹は3年間付き合った彼女から明里への想いを見透かされた言葉で別れを告げられて本格的に病みはじめ、退職届で社会に対して三下半を突きつけた。
ある日、ふと小学校の頃明里と歩いた道を訪れた貴樹は、男と2人で歩く明里を目にしたが、彼の表情はとても穏やかなものだった。色々吹っ切れたのだ。
貴樹が会社を辞めたのは平成19年の2月頃だそうです。
当時は現代 (平成30年代) と比べると雇用が流動化していなくいので転職は難しいし、平成19年といえば9月にリーマンショックが発生して就職難が再来した年。
明里のことは吹っ切れたとしても、再就職は難しく、年末には年越し派遣村の列に並んでいることでしょう。
しょうたのようなメンタルの強い (全てを諦めて開き直っているだけともいう) 男の子には、たかが小学校時代の恋人ごときのために病んだ挙句身をも滅ぼす理由は、物語としては理解できても共感は一切できません。
自分には縁のない他人事だから別に重い気持ちにもならないし、「嫌われ松子の一生」的な美しい映像で紡がれるメンヘラの転落劇として人間観察的に楽しく見てました

が!「One more time~」の歌詞の意味を知ってから見ると決して他人ごとではない恐ろしさを感じられます。
新海誠監督は秒速5センチメートルの主題歌を探すにあたって「普遍性のある楽曲」を求めたそうですが、「One more~」の本当の意味である「若いころの音楽への情熱を見失って思い悩む」を普遍化すると「熱い情熱や熱い夢を見失って思い悩む」とかそんなところ。
そう、主題歌から考えると、秒速のテーマは初恋そのものではなく、夢や憧れ (=貴樹にとっては明里) を見失った人間の末路なのです。
たまたま貴樹がメンヘラだったから下半身が原因で破滅したけれど、仕事への情熱だったり、趣味への想いだったり、その人にとって大切な何かを見失ったら、誰だって生きる意味や気力を失って、貴樹のように病んで破滅してしまう可能性はあるのです
、たとえメンヘラじゃなくても

何かに打ち込んでいる人にとって貴樹の転落劇を他人事ではないのです。

まあ、しょうたは楽して生きること以外何も考えてない意識の低いぬるいダメ人間だから大丈夫だと思うけど。
情熱を失って病む映画という解釈だとちょっと心に来るので、もう少し明るめの解釈も試みました。

病んだ頃の貴樹の年齢は、自主制作アニメを作り出した頃の新海監督と同じぐらい。
なので、貴樹は新海監督自身の、明里は監督自身が表現したかったアニメーションの、代わりの女たちが日本ファルコム所属時代に乗り気ではなかった仕事で作った映像のメタファーで、明里への思いに自分の追い求める理想のアニメへの情熱を仮託したのではないでしょうか?葛藤の末に会社を辞めたのも自身の日本ファルコム退社と重ねているのです。
そして最後に明里を吹っ切った貴樹が穏やかな顔になったのは、漠然と思い描いていた理想ではなく、自分自身のスタイルのアニメーションを見つけて新たな一歩を踏み出したことを表しています。
秒速はアニメ監督・新海誠が自分の道を見つけるまでの自伝でもあるのです!
ま~た岡田斗司夫ぶってるよこの11歳児。